日々に新しい生命の誕生に出会える感動を与えられていると、月日があっという間にすぎさって行くものですね。今は、新たな生命に出会える喜びを味わえる日が悠久に続くことを願い、ここで良い経験をしてもらえるように考えている今日この頃です。
何故、助産婦になったのだろうか
それはもちろん、母親からの影響と考えるのが普通なのでしょうが、じつわこれが嫌だったんです。
母の時代、昭和三十年から四十年代にかけて、家庭分娩が主流であったので、助産婦が自転車をとばしては昼夜を問わず各家庭に行き、出産を介助するのでした。今では貴重な出産となった感があります。しかし、当時小学生であった私の記憶のなかでは、母親が留守を心配して注文したラーメンが、知らない間にのびていて、空腹をかかえていた思い出もあります。
その後、母は助産院を建て施設分娩にしたのですが、そうなるとなったで、いつも何人かは入院していて、食事の配膳のためにいつも使われていたのでした。母はすべての妊婦さんの洗濯、掃除、食事はもちろんのこと、その間に学校のPTAの役員になったりで、いろいろの行事に顔を出していたことが思い出されます。
そんな母を見ていると「よく動き回る人だなぁ」ということは感じていましたが、いざ職業としてどうであるかと考えると「本当に楽しめるのであろうか、夜おきてて少しつらいのでは……」というのが本音でした。
しかし、高校三年になり進路を決めなければならなくなると、特に考えもせず漠然と「看護の方でいいかな」という気持ちになったのは、母の「何かの資格を取って、役立つことをやらなくてはいけない」という影響がないわけではなかったと思います。
そんな気持ちで受験をしたにもかかわらず、引き受けて下さったのは東京女子医科大学看護短期大学校だったのです。そこから私の看護師、助産師としての道が始まったのです。
勤務・働いてみて解かったこと
短大を出てから1年間看護師として循環器科(小児科)に勤務しました。
ここは後ろを向いて仕事をしている数分間、数秒間の間にも、チアノーゼをおこし心臓が止まってしまう状態の乳児、感染をおこさないように数分毎の吸引を必要とするところで、休憩も昼間は10〜20分で食事をして、交代しなければならない職場でした。
ここでは病名がしっかりとわからないと、おなじようなことが出来ないのです。また、小児ですからお母さんとのコミュニケーションも、大きな役割になってきます。
何故こんなに心臓疾患の子がいるのか? いろいろ事情はあるでしょうが、受胎した時からの影響を持って生まれてこなければならない子供を少なくするためには、妊娠前から自分の身体を考えられる人間を育てていかなければならない、との思いが強くなりました。
専攻科を卒業してから一年間、東京女子医科大学附属第二病院に勤務、月100人以上の分娩があるところでした。次から次へと分娩があり、もちろん異常分娩も何例か経験させていただきました。
ここでは分娩室があり助産師が十五、六人で三交替をしていました。その助産師は五十から六十歳代のベテラン達ばかりでした。手をお腹にあてただけで「この子はここ入っている。これは子宮破裂のおそれがある」といいあて、医師も参考のために必ず意見を聞いておりました。「これだ、これだよ。技というものは」と感心したのを覚えています。
第二病院で一年間を過ごし、私は千葉県で就職をしようと考えるようになりました。分娩が経験できるところはないか? もし母の助産院を継いでいくこととなれば、医療機関との連携を作っておかなければなりません。千葉大学附属病院がいいのではないかと、そこに三年間お世話になることになりました。
就職してみても、期待していた分娩数はそれほどなく、婦人科疾患が多く見られる病棟でした。分娩の時は必ず監視装置、点滴をつけ、がんばっている方がほとんどでした。大学附属の病院ですから、いろいろな疾患をもっている人が多かったのです。
その間、いろいろな症例にも出合え、看護師として考えさせられることも何度かありました。少しずつに助産師同士、また、医師との連携もとれるようになりました。三年目に入ると「本当にこれでいいのか? 看護師としてやりたいことは何なのか?」と自問するようになったころ、私の周りにも結婚という言葉がとびかうようになりました。
人生の転換期なんだと実感
結婚、それは本当に私にとっては、遠い遠い存在であったわけです。しかし、一回のお見合いで決めてしまったたのです。結婚式当日になっても「大丈夫かしら……」との葛藤でした。これも縁なのか、二人とも妥協しやすい性格なのか、何とかまだ続いています。
そして妊娠をしました。職業がら知識はあるものの、未体験ゾーンなのです。知識はあっても本当にこれでいいのかしらと思いつつ緊張することばかりでした。あら、本当にはってくるんだわ、くる間隔も一時間ぐらい「大丈夫」と思っていたら、膀胱がパンパン、おなかはりまくり、途中でトイレを懸命にさがす結果となる。
もう「生まれてもいい」と思い、便秘もしていたのでヒマシ油を飲み、排便をうながすと思いきや、陣痛が? 着たかと夜中じゅう、腰をさすってもらっていたのですが、便をしたとたんに陣痛さん、さようなら……でなくなってしまいました。
二日後にまた陣痛がはじまり、腰が抜けそうな痛みに耐えながら長男を生みました。
陣痛の痛みは「分娩経験がなくても、少しはわかるのが当たり前」と言われ学習をしましたが、とんでもありません。陣痛は想像できる範囲の痛さではありませんでした。
また、痛くなくては生まれません。経験があって「妊婦さんと同調しないと、いいお産はできない」と感じました。
第二子は陣痛がはじまり、二、三時間で生まれたのですが、分娩体位を考えるきっかけを作ってくれました。陣痛のとき、四つんばいになっていると大変楽だったのです。ところが、仰臥位(上向き)になると苦しくなってうまくいきみが出来なかったことが記憶に残りました。
そこでどんな体位でも赤ん坊は出て来ると思ったです。
出産、それは自由に姿勢を変化させながら、いざ生まれる時を、ゆっくりとした呼吸で、潮がみちるのを待つように、静かに赤ちゃんを待ってあげる作業なのではないでしょうか。
これからのマタニティーセンター
このごろはホームページへのアクセスが増えたようで、ホームページを見たといって受診される方もいらっしゃいます。
ホームページを開設したのは、三年くらい前からではないかと思います。はっきりしないのは、当初主人(八千代市議会議員)が自分のホームページを作ったからで、アクセスするとすぐに本人の似顔があって、活動の報告と八千代市の現状を伝えるものでした。
それに加えてマタニティーセンターのホームページも作り上げてしまったのです。便利なものだと聞いていましたが、世の中が日々・刻々と変化をしていることが、瞬時に情報としてわかります。同時にマタニティーセンターも日々・刻々と変化をしていかなくてはならないと実感しました。
ホームページを見て「あっ、ここではこういうことをやっているのか」と、バーチャル体験してもらえるように、していかなければなりません。実際の分娩もホームページも試行錯誤をしながら、充実した内容にするために、どんどん研究して、改めていかなければならないと感じています。
助産院も増加する傾向にはなっているのですが、まだ昔のようではないと思います。私は助産師が開業できるような研修に、積極的に取り組んでいきたいと思います。マタニティーセンターを組織として、大きく動かせるようにしていきたいと思っています。
日々研修をつんで、受け手にどの助産師にめぐりあっても、常にスマイルと的確な判断をすることができる。そういうレベルのサービスは必ず受けられるようにならなければいけないのです。しかし、助産師の教育機関も変化し、病院勤務への希望が高まっていて、技を磨く努力をする人の数が減ってきています。女性のための自然なお産を考えると、絶対数の助産師の数が必要になって来るのです。
それには、受け手である皆さんからの行政への働きかけがないと、どうしようもないところまで来てしまいます。
その場になって、困るらないように
自分のため、子どものため、その先には日本のため、世界のためがあるのです。縁あって出会った人に後悔はさせたくありません。何事も出来る範囲の中で努力をさせていただき、皆さんともそれぞれの立場で努力をした上で実らせる恵ではないでしようか。
今後とも八千代マタニティーセンター武田助産院を通して皆さん、また、これから出会う人たちとふれあって、切磋琢磨していくつもりです。
本書は「八千代マタニティーセンター」開業10周年記念誌です。
ここでは武田の挨拶を要約していますが、最近5年間の産婦さんの感想を収録したものです。
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